「歴史好き」の人が、歴史学者と話が合わない、というのはよく聞く話だ。なぜなら、「歴史好き」はつまらない事実より面白いストーリーを優先するのに対し、歴史学者は面白いストーリーよりつまらない事実を優先する傾向にあるからだ。
本記事は、小説家による歴史本と、根拠が数多くチェックされる学問としての歴史学を対比することで、本屋で歴史本を買うことのリスクを提示する。
小説家・井沢元彦 v.s. 歴史学者・呉座勇一
以前、日本中世史で大きな業績を残す歴史学者 呉座勇一氏が、小説家 井沢元彦氏の書く歴史本を「俗流歴史本」と批判したことがある*1。
「史料がないので結論は出せない」というのが歴史学の基本的な態度である。
こうした歴史学界の慎重な研究姿勢に対して井沢氏は、「具体的な証拠、つまり史料が無い限り、歴史的事実と認めてはならない」という「史料絶対主義」は単なる怠慢であると再三にわたって批判してきた。史料がなければ「推理」すれば良いではないか、というのが井沢氏の立場である。
確かに史料がないからといって考察を止めてしまうことが常に正しいとは限らない。特に古代史の場合、史料がどうしても限られるので、踏み込んだ推論も時には必要である。けれどもそれは、何の根拠もない思いつきを「仮説」と強弁しても構わない、ということを意味しない。
小説家・百田尚樹 v.s. 教科書
以前、社会科教師の浮世博史氏が、小説家 百田尚樹氏の書く歴史本『日本国紀』を批判したことがある*2。浮世氏は、教科書的な学説を参照している。
『日本国紀』に関しては、いろいろな方の、いろいろな角度からの批判や意見があるようです。たとえば、「参考文献の掲載がない」「史料の引用がない」ことも話題になったようですが、私は、これに関してはそれほど問題を感じていません。ただ、そうした批判に対し、百田氏は新聞・雑誌やSNSなどで「教科書にも参考文献や引用先が記されていない」と「反論」していましたが、それには疑問を感じます。
日本では、教科書はかなり特殊な書籍です。
「検定制度」があるからです。検定に際しては、膨大な指摘がされ、また参考文献やソースを要求されて、その上で提出しなくてはなりません。書いて、出して、検定してもらって、ハイおしまい、ではないのです。
教科書に記載がないからと言って、引用・参考文献がそもそも用意されていないわけではありません。ですから、たとえば『日本国紀』を教科書検定に出せば、間違いなく大量の指摘がされ、それに応える形で参考文献、史料・資料を提出しなくてはならなくなります。
(中略)それらの本(=教科書、筆者注)と『日本国紀』が違うのは、百田氏独特の、従来の通説とは異なる主張がされている箇所がある、という点です。「学者の中には〜」「教科書では〜」とことわって、その説、立場をかなり強い口調で否定する主張が散見できます。こういう場合は、やはり「引用」「根拠」を示す必要があるのではないでしょうか。
なぜ本屋の「俗流歴史本」が売れてしまうのか?
なぜ人々は、小説家が書いた根拠の薄い本を買ってしまうのか。以下二つの理由が考えられる。
理由①教科書の凄さを知らない
教科書は、上記で引用したように「検定制度」を受ける。加えて、検定制度どうこう以前に、そもそも執筆者は学問で多くの業績を残している学者たちだ。
学者は、論文を書く。その論文は、昔の一次資料に基づいており、本当に根拠があるか他の研究者から厳しくチェック(いわゆる「査読」)される。そうした論文を、何本も書くことで、ようやく教科書を執筆できるような偉大な教授になる。
我々が学校でなんとなく読んでいた教科書の裏には、根拠を厳しくチェックされる血と汗の結晶が隠されている。つまり、教科書は「何度も根拠をチェックされまくった本」なのだ。
理由②真実はつまらないことを知らない
私は以前書いた記事で、真実は複雑でつまらないことを説明した。
詳しくはこの記事を見ていただきたいが、歴史本に関しても同じようなことが言えるだろう。
「明智光秀が織田信長に本能寺の変を起こしたのは、〇〇だからだ」というすっきりしたストーリーほど、読者を魅了する。一方で、一次史料=根拠が少なければ、「何が理由かは分からない」というつまらない結論になってしまう。
しかし、カメラが無い時代で一次資料=根拠が少ないことは、避けられない。結果、「本当の歴史」なるものを探そうとすると、「Aかもしれないし、Bかもしれないし、Cかもしれない。史料が少ないから結論はまだ出せない」という大河ドラマと対をなす つまらないさにたどり着く。
ワシントン・ジェファーソン大学の特別研究員ジョナサン・ゴットシャル氏は、人間が作りがちなストーリーに一石を投じている。昔の狩猟採集社会において、ストーリーは、技術の習得や社会関係のマネジメントに役立っていた。しかし、農業革命以降とりわけSNSの発達した現代において、ストーリーは社会を分断するようになったという*3。
例えば、「景気が悪いのは、労働市場と、貿易と、為替と、人口減少と、企業の生産性が原因かもしれない。因果関係は断言できないため、他の要因もあるかもしれない」という複雑な真実より、「景気が悪いのはユダヤ人のせいだ」「景気が悪いのは財務省のせいだ」という簡単なストーリーの方がウケてしまう。
以上より、本屋にたくさんある「歴史本」を手に取ることの危険性をわかっていただけただろうか。全ての歴史本が間違っているわけではないが、あなたが情報リテラシーの高い大学院生でもない限り、本屋で歴史本を買うのは危険だ。
歴史で何があったかを正確に知りたいのなら、学校の「つまらない」教科書や、大学の図書館にある「つまらない」学術本を読もう。
もちろん、ストーリーとしての大河ドラマや歴史小説を読むことも楽しいし、絶対に見るなとも思わない。しかし、それだけで「私は歴史に詳しい」、「これが実際にあったことか」と即座に思い込むのは危険だ。