ヒトラーが「アウトバーンを作った」「それを軍用道路として活用した」「雇用を生んだ」「それがケインズ政策のパイオニアになった」「だからヒトラーは凄い」という言説は誤りだ。以下より、学術研究を根拠に、誤りである理由を述べる。
アウトバーンに関する三つの誤解
アウトバーンに関しては、主に三つの誤解が散見される。
まず一つ目は、「ヒトラーがアウトバーンを作った」という誤解だ。これに関しては、CNNの説明が参考になる。
ナチス・ドイツがアウトバーンを考案したわけではない。そうではなく、第1次世界大戦後にドイツの拡大する各都市をつなぐ高速道路を建設するというアイデアはワイマール共和国で生まれた。この種の最初の公道は1932年に完成し、ケルンとボンを結んだ。この道路は現在も存在しており、アウトバーン555号線の一部となっている*1。
二つ目は、「アウトバーンは軍用道路として使われていた」という誤解だ。
ドイツ現代史や空襲研究を行う柳原伸洋 東京女子大学教授によると、アウトバーンではなく鉄道が軍事道路として使われていたという*2。「軍用道路として構想されていたという流説は、歴史研究者によって否定されている」。
三つ目は、「アウトバーンによって雇用創出し、経済回復を成し遂げた」という誤解だ。
1932年当時、ドイツは直前の世界恐慌の影響を受け、大量の失業者に苦しんでいた*3。それを救ったのが、アウトバーンの工事による雇用創出だった、という誤解が散見される。
歴史学者のアダム・トゥーズ コロンビア大学教授によると、雇用データを分析した結果、アウトバーンは雇用をほとんど生み出していなかったという*4。
アウトバーンによって「雇用を生み出した」「失業対策を行った」「経済回復を成し遂げた」「ケインズ主義政策のパイオニアになった」という言説が、いずれも適切では無いことがわかる。
実際には、軍需産業の雇用の方が大きかったという。若者や女性の失業者はカウントしない、という統計上の問題もあったという*5。
失業者より再軍備を優先していた
そもそもヒトラーは、最初から失業者を救うつもりすらなかった。彼は、再軍備政策を優先していた。手形金融が潤沢で持続的に認められたのは、アウトバーン建設や雇用創出政策ではなく、再軍備政策だった。
まず、ライヒ政府支出の手堅金融について、政治の表舞台では1933年5月末、ライヒ財務省次官でナチ党員のラインハルトの名を冠した公共事業中心の第一次計画について10億RMの手形信用供与が認められ、喧伝されていた。しかし、その蔭で極秘裡にだが、これに先立つ4月から5月初めの時期に、陸軍と海軍に対して今後10年間にについて合計14億RMの資金提供が、メフォ手形金融の先取りとして認められていた。雇用創出計画に関しては、その後8月初め、ライヒ経済省参事官ラウテンバッハが地方財政再建・減税・大規模公共事業を含む不況克服のための「秋季プログラム」を起案した。しかし、この案はヒトラーの手許にまで届けられながら、おそらく財源問題でライヒスバンクの同意を得られず、閣議の議題にのぼるにいたらなかった*6。
まとめ
以上の誤解とその訂正をまとめよう。
- ヒトラーがアウトバーンを作ったのではない
- アウトバーンではなく、鉄道が軍用道路として使われた
- アウトバーンではなく、軍事産業が失業者を減らした
- しかし、そもそもヒトラーは、失業者を減らすことより再軍備政策を優先していた(結果として失業者を減らしたが、意図は再軍事政策そのものだった)
*1:CNN(2021年)「ドイツのアウトバーンはいかにして世界を変えたか」、https://www.cnn.co.jp/travel/35164499.html
*2:石田勇治(2020年)『ドイツ文化事典』、柳原伸洋「アウトバーン」、丸善出版、p. 63
*3:Das Bundesarchiv "Arbeitslose in Deutschland 1921-1932", Lebendiges Museum Online, https://www.dhm.de/lemo/bestand/objekt/arbeitslose-in-deutschland-1921-1932.html
*4:アダム・トゥーズ(2019年)『ナチス 破壊の経済 上』、山形浩生・森本正史訳、みすず書房
*5:石田勇治(2015年)『ヒトラーとナチ・ドイツ』、講談社
*6:大島通義・井手英策(2006年)『中央銀行の財政社会学』、第二章 大島通義「1930年代ドイツにおける中央銀行の「独立」と「従属」、知泉書院